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文久2年9月6日(1862.10.28)
慶喜・春嶽・老中連署で守護職の職掌(朝廷尊崇・京都警衛)を説明する書を朝廷に提出

■守護職の職掌
【江】文久2年9月6日、幕府は朝廷からの守護職職掌(「所役」)に関する問い合わせに、守護職設置は、朝廷尊奉・京都の警衛を十分にして天皇の心を安んじるためであると回答しました。

書簡は板倉勝静・水野忠精・松平信義(以上、老中)・松平春嶽(政事総裁職)・一橋慶喜(将軍後見職)の連名で出されました。大意は以下の通り。

(将軍は)「御遵奉筋並御警衛向等御十分」にしたいと思っておられたたが、近来、とかく叡慮が安んぜられないのは、「関東より之御仕向方御不行届之邊」が原因だろうと、深く恐縮された。
今後、叡慮を安んぜられるよう、容保に京都守護職を命じられ、「諸事精誠心付、御警衛向も十分相整」える「御見込」から、これらを「万事重取計」うため差遣わされる事である。

<ヒロ>
同年閏8月29日に、朝廷から守護職の職掌を問う書簡が届いており(こちら)、これに対する幕府公式回答となります。しかし、実際のところ、容保の守護職任命の理由は、京都の武力制圧でした→こちら

参考:『続再夢紀事』一p76-77(2003.10.28)
関連:■守護職事件簿「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■守護職日誌文久2 


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